幻想メモリアル4

書いたやつ:周摩


「……さすがに驚いたよノメァさん」

 観測者の言葉には余裕がみえる。
 しかし反対にその顔は明らかに引きつっている。

 ノメァ・ピドュポエガは観測者の言葉の一切を無視した。
 振り向き、屈んでポラリス・エイムズへと手を伸ばす。
 もはや顔を上げる力さえ残っていないのか、ポラリスは地に臥せったままである。

 酷い有様だった。
 全身の衣服はほとんど裸に近い状態にまで打ちのめされ、そこから覗く肌は元の白さが分からないくらいに痣や火傷、真っ赤な血に塗れている。
 長く深い呼吸音も今にも絶えそうな危うさがある。

 ポラリスは運よく生きていた訳ではなかった。
 痛めつけるためだけに死なない程度に手を加えられた攻撃が、何度も何度もその身に浴びている。
 しかし仮にもヴァンパイアクォーターであるポラリスならば、これ以上の身体の破壊が加えられなければこのまま死に向かうことはないはずだ。

「……あんたがこの子を狙った理由だとか、そんなことはどうだっていいわ」

 愛用のメイスを握り力を一層強める。
 今この場で、ノメァがやることは決まりきっている。

「重要なのはあんたがこの子に暴力を振るったこと、それだけで十分よ」

「はっ、そんなにあの子が大切かい? 吸血鬼のなりそこないのなりそこないが、さ」

「あんたには分からないわよ」

 鋭く言い放つ。
 そう、分かるはずがない。
 簡単に分かられてたまるか。

「ポラリスの手で、私は救われた。私は、その子の希望を貰ったのよ」

 あの日、あの時。
 ノメァがポラリスを見つけたのは何故か。
 ポラリスがノメァに手を差し伸べたのはどうしてだったのか。

 そんなもの分かるはずがない。
 当事者たるノメァですら分からないものを他人に説明できるはずがない。
 赤の他人が、理解できていいものではない。

「そして、同時に私もポラリスの希望でもある……その希望を、あんたに潰えさせたりはしないっ!!」

「威勢がいいねぇ」

 獰猛な笑みを湛えたまま、観測者は白い地面を蹴りつけた。
 それが合図となって『観測者の世界』の地面が蠢き出す。
 先ほどポラリスを襲ったのと同等の、無数の白い蛇のようなそれがノメァ目掛けて襲い来る。

「ソイソイソォォオオオオイ!!」

 数十にも及ぶ白蛇の波状攻撃を、なんとノメァは真正面から受けて立つ。
 一撃一撃をステップで避け、裁縫針の穴のように狭いスペースを見つけては潜り抜ける。

 『月夜の祈祷』により高められた回避性能は単に素早くなるだけではない。
 自身に向けられる攻撃一つ一つを肌で感じ、それを回避するための最善を頭が叩き出す前に体が動くようなものだ。
 四方八方、三六〇度どこから攻撃があっても即座に対応し、回避行動を取ることが可能である。
 全身に殺気を感じる悪影響により一時的に変なテンションになってしまうが大した問題ではない。

 荒れ狂う津波のような蛇の攻撃を全て躱しきり、ノメァは無防備な観測者の前に躍り出た。
 対する観測者もまた、素早く地面から障壁を作り出して防御の構えを取る。
 彼はこの世界の支配者であり、この世界においては絶対の強者なのだから。

 しかし、

「成っ敗!!」

 メイスの一撃は絶対だったはずの障壁を打ち破り、観測者の脇腹に直撃した。

「――ご、っ……!!!」

 強風に舞い上がる枯葉のように観測者の体は吹き飛ぶ。
 その先で地面が隆起し観測者の身体を柔らかく受け止めたところを見ると、まだこの世界は彼の支配下なのだろう。

「私の撒き散らす『不幸』、確かにあんたに届けたわ」

 その一撃は不幸を運ぶ。
 たとえ防御できたとしても凝縮された不幸は接触点より浸食して対象者を苛む。
 命の奪い合いにおいて、その蝕みの差は顕著に現れるものである。

「……くそ、やってくれる」

 平気そうではあるが、まるで効いていない訳ではない。
 億劫そうに観測者は口の中に溜まった血を吐き捨てる。
 白の世界において、初めて観測者がその色を汚したのだ。

「分かったよ、認めよう。ノメァ・ピドュポエガ、君は僕の『敵』だ」

 敵対宣言。
 それは彼が支配するこの世界において、対等であることを示す言葉だ。
 何でも思い通りの世界でそんな『敵』など発生するはずもなく、それがどれだけ異常であるかは説明するまでもない。

「最初っから、あんたは私の『敵』よ。それ以上でもそれ以下でもないわ」

 聞こえようによっては挑発のような言葉を、観測者は聞き流した。
 ただ一挙にて応える。

「――ッ!!」

 初撃とは比べ物にならない量の地の白蛇が、ノメァの周りを取り囲むように生み出される。
 先ほどが白い鳥籠だったとしたら、これは単なる白い壁だ。
 そう思わせるほどに周囲が埋め尽くされている。

 一度天へ伸びた白蛇は、わずかずつタイミングをずらしてノメァの元へ殺到する。

「ソイソイソォォオオオオイ!!」

 それでもノメァのやることは変わらない。
 全力の回避にて攻勢を殺ぎ、再び『不幸』の一撃を見舞う。
 それだけに集中していればいい。

 しかし白蛇の攻撃は途切れない。
 ノメァの見つけるわずかなスペースを埋めるように、自らの首を叩きつけていく。

 無敵に思われるかもしれないが、『月夜の祈祷』にも無論弱点はある。
 一つはこのスキルに必要な肉体的なダメージが大きすぎることだ。
 発動時に多量の血を流すこのスキルは一時的な肉体的疲労に加え、劇的に自らの死期を早める。

 二つに、圧倒的な物量を用意されてしまうと成す術がない。
 いくら回避のための最適行動が取れたとしても回避するスペースがなければどうしようもないのだ。
 もう一方の弱点と加えて、一撃でも命中して動きを止められれば命取りとなりかねない。

「――くうっ!!」

 綻びは早かった。
 白蛇が砕いた白い大地の破片がノメァの右足首に喰らいつく。
 一瞬だけノメァの体が強張り、その隙を突いていくつもの白蛇が彼女を襲った。
 ただそれだけで決着がついてしまうほど、ノメァはギリギリの中で戦っていたのだ。
 
 そもそも常人では初撃で押しつぶされていてもおかしくなかったほどの物量である。
 それに対して一〇〇秒以上持ちこたえたのは流石と言わざるを得ない。

 観測者は世界を操り、ノメァに突き刺さった白蛇を元の大地へと戻した。
 その場にうつ伏せに倒れているノメァはピクリとも動かない。
 あれだけの量の白蛇に押しつぶされたのだ、勝敗は決したとみていい。

「敵として認めたからには……完全なる止めを、刺す」

 観測者は脚を踏み出した。
 その手に生成した『白い槍』を携えて。
 
「フリーズ(止まれ)……!」

 制止の声。
 観測者が視線を巡らせると、視界の端にボロ雑巾が立ち上がっていた。
 否、それはボロ雑巾ではなくポラリス・エイムズである。

「手加減してやったとはいえ、もう起き上がれるってのはどうなんだい?」

「それ以上、おねーちゃんに、手を、出す、な……!」

 息も切れ切れに、ポラリスは言葉を紡ぐ。
 もはや立っているのがやっとの状態で、しかし頑として倒れない。

「ははっ、やっぱりただの強がりだ。君には何の力もない。そこで彼女が貫かれるのを眺めているといいよ」

 嘲笑し、観測者はなおも歩みを進める。
 全くその通りであった。
 観測者の世界に歪をもたらした敵として戦ったノメァならともかく、ポラリスはただの獲物だ。
 単なる娯楽の道具だ。

 であればこそ、観測者は油断した。
 ポラリスに世界を覆すはないのだとしても、彼女が何もできないこととイコールではないことを。
 自らが敵と認定したノメァが倒れ伏しているのは絶命した故ではないことを。
 彼は想像できなかった。

「なん――!?」

 次の瞬間にはノメァは飛び起き、メイスを振るって観測者のがら空きの胸を穿つ。
 ごぱ、と血液交じりの呼気を吐いた観測者はその場に崩れ落ちる。
 不意討ちの一撃はそれでも世界を穿つ『不幸』の一撃だった。
 その時の衝撃で彼女の懐からボロボロに黒ずんだバナナの皮――盛皮君という、彼女の親友である――がこぼれ落ちるも、ノメァは難なく空中でキャッチする。

「ありがとうね、盛皮君」

 ノメァはバナナの皮に向かって優しく語り掛ける。
 先の白蛇の連撃、その衝撃全ては盛皮君が引き受けていた。
 一体どういう理屈なのかは分からないが、呪いのバナナの皮のなせる業だと納得するしかない。

「く、貴様……!」

「――私は不幸を操れる。それはつまり、幸福な運命をたどるはずだった人の運命を捻じ曲げ、不幸にする……」

 ノメァはゆったりと立ち上がる。

「あんたの運命、手の内にあるってこと覚えていてちょうだい」

 逃がすかとばかりに、ノメァは追撃の一発を放つ。
 今度は先ほどのように防御する暇すらなかった。
 観測者の体が無様に吹き飛び、白い地面を転がっていく。

 今度こそ、観測者は立ち上がれない。
 すでに三発。
 ノメァの渾身の一撃が、三度もその身を叩いているのだ。
 その身に蓄積された『不幸』は内々から観測者を蝕んでいる。

「く、そ……だが、まだ終わらない! この世界がある限り、僕は死なないし君たちに勝利はない!!」

「――そんなもの幻想だよ」

 ポラリスは静かに否定する。
 ボロボロの身体を、剣を杖にして何とか立ち上がっている状態で、なおも毅然と言い放った。

「幻想などではない! 僕の傷なんてすぐにでも癒える、魔力も無尽蔵だ! 何なら君たちを永久に閉じ込めることだってできる!!」

「……分かっていないフリはもうやめたら?」

「なに、を……!?」

「この世界は完全じゃない。……『もう』完全じゃない」

 この状況がすでに不完全であることの証明だ。
 そもそもノメァ・ピドュポエガという『異物』が入り込んだ時点で、この世界は完全じゃなかった。

 ノメァが破壊したのは世界を隔てていた壁のみではない。
 彼女は不幸を呼び寄せる。
 幸福になるという運命を破壊する。
 観測者の思い通りになるという幸福は、彼女の運んだ不幸でずたずたに壊されていた。

 そして、観測者は気づく。
 ポラリスが杖代わりにしていた剣の正体に。
 赤銅色の刃を持つ、彼女の身の丈ほどの長剣――破滅の枝レーヴァティン。

「一度穿たれた世界はね……壊せるんだよ、観測者」

 かつて北欧神話において炎の巨人スルトの持つ破滅の枝は世界を壊した。
 しかし、それは北欧神話が完璧な世界でなかったからこその世界殺しである。
 神々が死に至る神話という他に類を見ない歪な世界でこそ、レーヴァティンは真の力を発揮できる。

 観測者のこの世界だって同じだ。
 完璧なルールの下で創造され管理されていた世界は、ノメァ・ピドュポエガという異物によってその完全を砕かれた。
 歪なものが滲んだ世界はポラリスの手により破滅への道を否応なしに進む。

「馬鹿な……何故君がそんなものを! 僕の集めたデータにはなかった!!」

「そりゃそうだよ。だっておねーちゃんは……『火炎』が嫌いなんだもの。そんなおねーちゃんの前で軽々しく使うなんて有り得ない」

 ノメァは幼い頃に二人の姉を火災事故で亡くしている。
 この世の全ての不幸を背負っていると錯覚するほどの不運少女ノメァは、それが自分の不幸がもたらしたものだと確信した。
 それ以来、火炎を前にするとその時の光景がフラッシュバックしてしまう。
 言うなればトラウマだった。

「ソーリー、おねーちゃん」

 ふわり、と。
 ノメァの手に、ポラリスが放った七色の羽が触れる。
 その瞬間ノメァの背から夜色の翼が彼女を包み込むように展開されていく。

「なっ、ポラ――!」

「少しだけ……目を閉じていて」

 『ヴィゾフニルの尾羽』の真価は行動力上昇ではなく、わずかな回数の防御にある。
 いかなる手段を用いたのか観測者はその防御を貫通する技を持っていたようだが、ポラリスにはそんな力はない。
 レーヴァティンの火炎では、一撃だけでその翼を貫けない。

「嘘だ、僕の完璧な世界が壊れる筈が――!!」

 破滅の枝が振るわれる。
 一切の慈悲も躊躇いも捨て去ったその一撃は。

 世界を、壊した。


 びゅうびゅうと風が吹き荒れる。
 ポラリス・エイムズの眼前には満月が煌々と輝いていた。
 いつもより大きく見えるのは、それだけ高度が高いからか。

 観測者の世界は壊れた。
 詳しい術式理論は分からないものの、世界が破れたその先が空中である以上、ポラリスが馬車で転移した場所に戻されたということだろう。

 すでに観測者はいない。
 ポラリスの振るった初撃で周囲の足場を破壊され、観測者はいの一番に落ちていった。
 この高さからでは、彼が何者であろうと絶命は免れないだろう。

 手に力を込める。
 彼女のボロボロの手は、最愛のおねーちゃんであるノメァ・ピドュポエガを確かに掴んでいた。
 もう二度と触れ合えないと思っていた温もりが肌を通して伝わってくる。

「おねーちゃん……どうして? どうしてわたしを追ってきたの……?」

 何かを言わなくちゃと思って、そんな言葉が出た。

「わたしは、おねーちゃんに傷ついてほしくなかったのにっ……!」

 違うのに。
 今、こんな言葉を伝えたい訳じゃない。
 だのに、口をついて出てくる。

「……やっぱりね。うん、知ってたわよ。そんなこと」

 はぁ、とため息混じりにノメァは息を吐いた。

「あんたが私たちを巻き込まないようにって独りでここに来たことくらい、私でも薄々気づいてたわ。
 でも、だからこそ言わせて貰うわよ。
 ――あんな別れ方で納得しろってほうが無理でしょうがッ!!」

「だ、だからって……それだけのためにこんなところまで来ちゃったの?」

「あったり前でしょうがぁ! こちとら肝心なことをまだ聞いてないのよ!! いや確信は得たけどね、こういうのはハッキリあんたの口から聞かないと!!」

「え、な、なに? なに??」

「ポラリス、あんた本当に私と離れたいの?」

 ただ、それだけだった。
 ノメァはたったそれだけのことを確かめるために命を張ってここまで来てくれている。

 目頭が熱い。
 声が震える。

「そんなわけ……ないよ。おねーちゃん……わたし、ずっと一緒がいいよ……」

 嗚咽交じりにではあるが、ポラリスは確かにそう伝えた。
 心を秘めなければならなかったあの時とは違う。
 もう、ポラリスが独りで背負わなければならない脅威はなくなった。

「……そう、ならいいのよ。
 今後はあまり勝手な行動しないようになさい。
 それとねぇ、こういう荒事があるなら少しは私を頼れ、ばかっ!」

 ぺしん、とノメァはポラリスのおでこを軽く小突く。
 その瞬間、崩壊の進んでいた観測者の世界が大きく揺れた。
 ただでさえ壊れかけだった世界が、形を保てなくなってきているのだろう。

「さて、……ここからどうするか、よね」

 ノメァの呟きの直後、観測者の世界が完全な終焉を迎える。
 それと同時に二人は大空に投げ出された。
 互いに互いの身体を掴み合ったままなので離れることはなかったものの、このままでは観測者同様に落下死の未来しかない。

「――ドンウォリー、おねーちゃん。これがあれば、何とかなるよ」

 『ヴィゾフニルの尾羽』を手に、ポラリスは微笑む。

「そっか、それがあれば飛べるんだったわね」

「ううん。たぶん、もう無理。私はあんまりにも使いすぎたし、おねーちゃんは本来吸血鬼じゃないから使いこなせない」

「……? だったらどうするのよ?」

「こうするの」

 言うが早いか、ポラリスは『ヴィゾフニルの尾羽』をノメァに押し付ける。
 先ほどとの違いは、それがポラリスの魔力を用いて翼が作られたということだ。
 ノメァの背に展開された黒翼は半実体を持って広げられ、落下傘のように空気抵抗を生む。

「ポラ――!?」

 二人の手が、離れた。
 急激な速度の減衰によりノメァはその場に留まり、ポラリスは変わらず落下する。

「私の魔力で補佐すれば……おねーちゃんだけなら傷つかずに着地できる」

 まるでその一瞬が引き伸ばされたように、互いがゆっくりと離れていくような感覚。
 ポラリスはそれでも笑みを作った。
 取り繕うような不自然さを、全力で殺して。

「これでもわたしフリークスだから。きっと大丈夫。怪我しても、また元通りになるよ」

 嘘だった。
 この速度、この勢いではいくらポラリスがヴァンパイアクォーターであろうと、落下の衝撃は容赦なくその五体を引き千切るだろう。
 無事でいられるのは翼によって守られたノメァだけだ。

 これでいい。
 何度も何度も、ポラリスは自身へそう言い聞かせた。
 本当ならあの観測者の世界で死んでいた身だ。
 大好きな人を守れて死ねるのなら本望だ。

「――ッ!」

 だとしても。

 涙が溢れた。

 死にたくない。

 もっと一緒にいたい。

 ずっと一緒にいたい。

「――ノメァおねーちゃんッ!!!」

 堪えきれなくなって、叫んだ。

 ぼろぼろとあふれ出す涙を止める術は知らない。
 視界がぼやけても、ポラリスはまっすぐにノメァを見つめ続ける。
 未練がましいとは思いつつも目を閉じるのが怖かった。

「――ポラリィィィイイイイイス!!!」

 風を切って、ノメァの叫びがポラリスの耳に届く。
 それが自身の名前だと理解した瞬間、ポラリスの涙の色が変わった。

 悲しいだけじゃない、嬉しい時だって涙を流す。
 それは人間の証だ。
 例え七割五部であっても誰かを想って涙を流せる、そんなヴァンパイアクォーターで良かった。

「おねーちゃん――大好きだよ」

 誰に聞かせるでもなく。
 ポラリスは最後にそう呟いて目を閉じた。
 その瞬間だけは、微笑んでいられた気がする。

 地面に激突するまで、もう間もない。
 死の訪れは一瞬だろうかそれとも永遠だろうか。
 そんな考えが頭をよぎるも、どうでもいいと一蹴した。

 もはやこの状況を覆す手は残されていない。
 ノメァは黒翼によって無事着地し、ポラリスは衝撃によって絶命する。
 この運命は変えられないものとポラリスは確信した瞬間、ポラリスは思った。
 自分は幸福だと。

 ――運命が切り替わる音がした。

 このわずか一秒に満たない時間の後、奇跡としか思えないような現象が発生する。
 その奇跡を引き寄せたのは、世界広しと言えども不幸の象徴ノメァ・ピドュポエガに他ならないだろう。

 なぜならば、彼女は幸福な運命をたどるはずだった人の運命を捻じ曲げ、不幸にする。
 ポラリスの感じた『幸福』は彼女によって捻じ曲げられ、『不幸』へと形を変える。
 その不幸の形が果たして本当に不幸なのか、それは誰にも分からない。

 自らの犠牲だけで大好きなひとを守れたというポラリスの幸福は、彼女を死という安らぎに落とすことなく生に苦しむ不幸へと落とされる。

 まるで意地の悪い問題のようだった。
 『幸福』や『不幸』という言葉の定義を覆しかねない、そんな捻じ曲がった問題。
 しかし、そんなひねくれた問題に対しても直線で答えを出す男が――

「奥義!! 天翔穿龍掌破ァァァァアアアアアアアアア!!!!」

 ――ここに、ただひとりだけ居る。


 ポラリス・エイムズが目を開けると、こちらを覗き込むノメァ・ピドュポエガと目が合った。
 胡乱(うろん)な意識をどうにか覚醒させようとしている矢先。
 目覚ましはゲンコツだった。

「アウーッ!!」

 ポラリスは涙目になりながらひりひりと痛む頭を押さえた。
 ヴァンパイアクォーターだろうがヴァンパイアハーフだろうが、痛いものは痛い。

「あんたってば本っ当に……! この程度で許してあげるんだから感謝なさい!!」

 ノメァは苛立ちまぎれに荒く息を吐いて、おでこを軽くはたいてポラリスの身体を再びベッドへ沈めた。
 そして自身も傍の椅子に腰掛ける。
 いきなりすぎて何が何だか理解できていないポラリスは、ここでようやく辺りを見回した。

 見慣れた天井、小物やぬいぐるみの類でごちゃごちゃとした部屋。
 衣服は見慣れない白いブラウスに、下はショーツだけだった。
 髪は解かれていて、真紅のリボンは枕元に畳んで置いてある。

「ここ……、わたしの部屋?」

「こんなきったない部屋、あんた以外住めないでしょ。少しは要らないもの捨てなさいよ」

「……夢じゃない、よね?」 

「もう一回ゲンコツ食らわすわよ」

「いや違くて。どうして生きてるの?」

「ファイトが飛んできたの、覚えてないの?」

 ファイトが飛ぶ。
 何だかとっても異常な字面ではあるが、彼なら仕方ないと諦めてしまえる節もある。
 彼は他流の剣術・体術を再現する『奥義掌破』というスキルを得ている。
 それによって飛行に似た体術や飛行そのものの術式を再現していてもおかしくない。

「ちゃんとお礼言っておくのよ。さすがに疲れた、って言って今は眠ってるから、あとでね」

 ノメァの話によれば、ファイトが受け止めた衝撃でポラリスは気を失ってしまったのだという。
 少し間をおいてゆっくりと着地したノメァはすぐさまファイトにかいつまんで事情を話し、ポラリスをお食事処『味噌煮込みうどん』へと運んだ。
 ファイトは裸同然のポラリスへ自らのジャケットを掛けると、先に落下した観測者の様子を確認してくる、と言って走り去っていった。

「……観測者は、どうだったの?」

「遺体は見つかったらしいわ。ひと目でそれと分かる状態だったらしいから、当然の結末を辿ったのでしょうね」

 言いつつ、ノメァは顔を背けた。
 あの高さから落下して生きていられる生物なんて、それこそ真なる吸血鬼くらいのものだろう。
 つまりは観測者の五体は引き千切られていた、ということだ。

「じゃあ……もう、終わったんだ」

 全ての元凶たる観測者はこの世から退場した。
 彼を裏で操っていた黒幕でも出れば話は別だろうが、組織的な計画であれば彼が単独で襲ってきたことに疑問符が浮かぶ。

 観測者の世界は強力無比な術式だったが、それに誘い込むまでに無駄が多すぎる。
 人員を割けるのであればあんなにまどろっこしい交渉なんて経由せずに、無理やりにでも世界に引きずり込むことが可能だったはずだ。
 確信は持てないが、十中八九観測者単独で計画したことだろう。

 ポラリスを脅かす脅威は全てなくなった。

「――まだ終わりじゃないわ」

 はずなのだが、すぐに否定された。
 ポラリスは思わず身構えるがノメァの表情はそう張り詰めたものではない。

「あんたを助けに行くためにどれだけ苦労が掛かったか。
 私はまぁほとんど無傷だったからいいものの、ひばりさんは高熱を出すわ虹夜さんは重傷だわで大変だったのよ?
 ファイトもあんたの命を直接救ったわけだし、後始末にも奔走してくれた。
 忘れちゃいけないのが盛皮君よ、私のダメージ全て引き受けてくれて間接的にあんたを助けたわ。

 だから、とりあえず全員にお礼。
 あとは勝手に抜け出して心配掛けさせて大怪我して死に掛けながら帰ってきて迷惑かけたこと、それだけはきちんと謝りなさい」

 そこまでやってようやく終わりよ、とノメァは付け加えた。
 ぽかん、と口を開けっぱなしでポラリスは聞いていたが、やがて静かに涙を流した。
 張り詰めて固めていた感情が、今度こそ溶けて涙となって流れ出したのだ。

「おねーちゃんごめんなさい……ありがと」

「ん、いいわ。さっきのゲンコツでもう許した」

 それだけ言ってノメァは立ち上がる。
 大きく伸びをして、ついでに欠伸をかみ殺していた。

「さて、ちょっと一眠りするわ……結局徹夜だったし。
 あんたももうしばらく寝ていなさい。
 いくらヴァンパイアクォーターでもあれだけの怪我したんだから回復まで時間掛かるでしょう?」

 ポラリスの傷のほとんどはまだその身に刻まれているものの、ほとんど表面的な傷だけだった。
 内臓に届いたダメージの分は、次第に癒えつつある。
 とはいえ回復には通常の人間と同じく休息が必要なのは間違いない。

「うん、そうする……おやすみ、おねーちゃん」

「おやすみ……ポラリス」

 ノメァが部屋を出て行くと、途端に静かになった。
 窓の外を見てみると少しずつ空が白んで来ているらしい。
 悪夢のような夜は、もう終わった。

 ポラリスは毛布に包まると、そのまま目を閉じた。
 起きてからやることはたくさんある。
 そのためにも体力が必要だ。

 まどろみつつ、ポラリスはひとつだけノメァに訊ねたいことがあったのを思い出した。
 ポラリスが半殺しにされ、ノメァが観測者の世界に乱入した直後のことを。

『私の大切な  をここまでしておいて――』

 あの時、ノメァは何と言ったのだろうか。
 ポラリスを大切な何と思っていてくれたのだろうか。
 聞いても教えてくれないかもしれない。
 だからこそ、知りたかった。

 しかしポラリスの頭はそこまで良くできていない。
 次に目を覚ましたときには、その疑問はどこかへと消え去ってしまっていた。
 きっと、ポラリスにとっては重要ではなかったのだろう。

 最も重要なのは、ノメァがポラリスを『大切』だと思っていてくれることなのだから。

 室内にはもう誰もいない。
 この声を聞くのはポラリスだけだ。
 誰に聞かせるでもないその声は、少しだけ照れたような声量に絞られていた。

「大好きだよ、おねーちゃん……」


 【エピローグ】

 遠啼ひばりの熱は一晩安静に眠ったところ、平熱にまで回復した。
 東洲斎虹夜の全身の自傷も深いものはなく、数日横になっていれば癒えるはずだ。
 ファイト・オーに至っては単純にただの疲労だったので今は元気に掌破薪割りを行っている。

 誰もが後遺症なく日常に戻れていた。
 ただ一人、ポラリス・エイムズを除いては。

「……おねーちゃん、これは」

 迷惑をかけた他のメンバーに謝罪と感謝を述べて回ったポラリスは、正真正銘最後の強敵(ラスボス)と対峙していた。

 一人用サイズの小ぢんまりとした土鍋にはピンク色の液体が注がれている。
 問題なのはこれがお粥だと言って供されたことにある。
 ポラリスの常識として、お粥はここまでドぎついピンク色にはならない。

「一応怪我人なんだし、消化し易いものがいいでしょ。私の非常食削って作ったんだから、あとで買出し手伝いなさいよね」

 ノメァ・ピドュポエガはいたって真面目だった。
 それが逆にポラリスの良心を激しく責めたてる。
 この最愛のおねーちゃんは本心からポラリスを思ってこのお粥を作ってくれたのに、ちょっと色が極彩色だからと拒否していいわけがない。

「い、いただきますっ……!」

 覚悟は決めた。
 意を決し、ピンク色の液体へとスプーンを沈めていく。

 ――がちり。

「………………」

 底ではない。
 土鍋の底に当たっただけでこんな金属音と感触がするものか。
 このお粥には金属と思しき具材があるのだ。

 先ほど決めた覚悟が崩壊しそうな予感がして、ポラリスは聞かなかったことにした。
 スプーンを分け入れた箇所をずらし、お米を掬っていく。

「ふあっ!?」

 ピンク色の液体から顔を出したスプーンは、確かにお米を掬っている。
 それも、ただのお米ではない。
 たっぷりの水で煮られたはずなのに、元の流線型を留めているのだ。

「どうしたのポラリス?」

「いっ、いや! なんでもないよおねーちゃん!!」

 スマートなお米を乗せたスプーンを素早く戻し、ひとまず誤魔化した。
 ノメァは味見などしていないに違いない。
 というか良く考えたら彼女はお米を生で食べるようなひとである。
 それ自体は彼女の体質に関わることなのでとやかく言えることではないが、他人に供するならもう少し煮込んでほしかった。

「冷めちゃうわよ?」

 なんと追撃である。
 お米の惨状を見ていただければお分かりかもしれないが、このお粥、実にぬるい。
 そういえば湯気など最初から見えていなかった。

「い、いただきます……」

 食前のご挨拶二度目。
 さっき決めた覚悟はもはや跡形もない。
 それでもポラリスは匙を投げることはなかった。
 大好きなおねーちゃんの手料理だ、それがどんなに残念であろうと捨てるなんてとんでもない。

 流線型のお米を、普段の大食らいポラリスからは考えられないほど謙虚に掬い、

「………………」

 恐る恐る口に入れた。

「………………」

 ――じゃりっ。

「……むぐ」

 ――じゃりじゃり。

「………………」

 まるで砂を噛んでいるようだ。
 しかしお米自体の味のお陰で、我慢すれば嚥下できなくもない。
 ちっとも消化に良くないのはさておき、食べられるというのは朗報だった。 

 そして咀嚼するうちに気づく。
 このピンク色の液体の正体、それは間違いなく誰かの血液である。
 少量であるため真っ赤にならずに、わずかに溶け出した研ぎ汁によりピンク色となったのだろう。

 というか誰か、ではなくノメァのものであるのは間違いない。
 それも故意に入れたのではなく、調理中にどこか怪我をして誤って混入したものなのだろう。

「……となると」

 意を決して、ポラリスは先ほどの金属音を探り当て、ゆっくりとピンク色の液体より引き上げた。
 窓から差し込む日差しを反射して、キラリと光る。
 折れた包丁かナイフの欠片のように見える。

 どうみても凶器です、本当にありがとうございました。

「あ、何か変なの入ってた? ごめんごめん、捨てといて」

 この瞬間、ポラリスは本能的に悟った。
 お食事処『味噌煮込みうどん』はいつか近いうちに潰れる、と。

(お料理の勉強しよ……でないと、きっとわたしも死ぬ……!)

 ポラリスの決意は悲壮感に漂いすぎていて、もはや死亡フラグに近かった。
 ちなみにノメァのとんでもないミスフォーチュンクッキングのお陰(?)で『味噌煮込みうどん』にようやくまともな料理人が誕生するのはもう少しあとのお話である。

「レ、レスティンピースわたし……げふぅ」

 砂を噛むような触感と刃物の恐怖に怯えながら、ポラリスはおねーちゃんお手製のありがたい昼食を平らげていった。




幻想メモリアル - 完

  • 最終更新:2015-02-08 19:58:03

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