幻想メモリアル3

書いたやつ:周摩


 ノメァ・ピドュポエガはお食事処『味噌煮込みうどん』へと帰り着いた。
 表の入り口は夜間はしっかりと施錠されているため、裏口へと急ぐ。
 その近くには頭の四角いシルエットが立っていた。

「ノメァ嬢。こんな時間にどこへ行っていたんだ」

 異形というわけではない。
 その人物は頭に紙袋を被っていた。
 少なくとも『味噌煮込みうどん』の近くでここまで特徴的な外見をした人物は一人しか心当たりがない。

「虹夜さん……!」

 東洲斎虹夜。
 かつてこの世界に激怒し、絶望し、破壊を望んだ者。
 失敗したとはいえ、成し遂げるための手段として『邪神の召喚』という禁じ手を用いた経験のある人物だ。
 つまりは相当に魔術に精通した人物である。

 ポラリスのこと、観測者のこと、世界転移のこと。
 ひとつだけ、自分の心の奥底だけは秘めて簡潔に説明を行った。
 元々ポラリスの普段と違う様子に違和を感じ取っていた虹夜は真摯に耳を傾けてくれた。

「なるほどな、その移動術式なら先ほど私も見た。
 空を翔ける青白い炎の馬、あれは十中八九『滑空せし神の軍馬(スレイプニル)』だろう」

「ス、スレ……え、何?」

「その観測者とやらが用いた術式の名前だ。
 マイナーな部類に入るが、私はかつて北欧神話系統の伝承魔術書でその名を見たことがある」

 魔術があまり浸透していない古代に編み出されたものだったらしい、と虹夜は付け加えた。
 やはりというか、彼は魔術への造詣が深い。
 もしかしたら召喚術以外は門外漢かと思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。

「ポラリスに追いつけるかしら?」

「……厳しいな」

 虹夜は満月へと目を向ける。

「魔力のタイプ、その必要量。
 その程度ならどうにか理解できるが……如何せん肝要な内部の解析は難しい。
 すでに魔力の残滓も消えかかっている上に、あれをサンプルとするにはあまりにも遠すぎる」

「じゃあ、もう追跡はできないの?」

「新たに情報があれば不可能ではない、が――」

「それがあれば苦労はしないのね……」

 満月の輪郭に合わせて生成されていた魔法陣の円は、もう見えない。
 せっかく術式への理解が及ぶ頭脳があったとしても、材料がなければ考察もできない。

「――その話、聞かせていただきました」

 まさかの頭上からの声。

「なっ、その声は……ま、まさかひばりさん!?」

「いかにも私です」

「どうして屋根の上なんかに!?」

「ノリです」

「ノリなの!?」

 何故か渾身のドヤ顔である。
 そもそもこんな夜中に屋根の上に登って、本当に何をしていたのか。

「重ねますが、話は聞かせていただきました。要はその転移術式の情報があれば追跡は可能ということですね?」

「できなくもない、といったところか。しかし社長、危ないからひとまず降りなさい」

 小さくため息交じりに、虹夜は注意した。
 対する遠啼ひばりは屋根にちょこんと腰を下ろし、

「私もあの術式は眺めていました。何とかしてみましょう」

 ひばりは眼鏡の位置を調整する。
 それは彼女が普段から行っている『検索』を開始した合図だったか。
 どういう理屈だか聞いたことはなかったが、こういった仕草をした後の彼女は新たな『知識』を得ているような言動をする。

「――待て、社長ッ!!」

 虹夜の叫び。
 いつになく緊迫したその雰囲気にノメァは身体を震わせる。
 不幸の気配がした。

「――ッ、はっ……!?」

 ひばりが短くうめく。
 頭を抱えて、ぐらりと揺れた。

「ひばりさん!!」

 ひばりが立っていたのは屋根の上だ。
 そのまま落ちてしまえば死にはしないかもしれないが、怪我は免れないだろう。

 虹夜は義足であり、反応できても身体が追いつかない。
 ノメァは俊足であるが、ひばりより身体が脆く怪我を負いかねない。
 最適解が出ない意地の悪い問題のようだった。

 しかし、そんなひねくれた問題に対しても直線で答えを出す男がひとりだけ居た。

「――っぶねぇっ!!」

 ほとんど宙に投げ出されたひばりを追うように屋根から飛んだ人影があった。
 ファイト・オーである。
 彼はひばりの身体を空中で抱きかかえると、超人的な体捌きで体勢を整えて地面へと着地する。

「バッカ野郎! 危ねえことしてんじゃねえよ!!」

 息を切らせてファイトは怒鳴る。
 一方のひばりはファイトの腕の中で苦しそうに荒い呼吸を繰り返していた。
 額に手を当ててみると、酷い熱を感じる。

「おい……何だこりゃあ!?」

「彼女は『見て』しまった……いや、『識って』しまったんだろう」

 重たげな調子で、虹夜は断定する。
 ひばりの端整な顔は汗だくになり、時折身体を震わせている。
 それでも、彼女はどこから取り出したのか、震える指先を動かしてメモ帳に何かを書き記す。

「ノメァさん、……いえ、虹夜さん……」

 記し終えたメモ帳を億劫そうに虹夜へと差し出す。
 虹夜がそれを受け取ったことを確認したひばりは満足げに目を閉じた。
 まさか、とギクリとするが、どうにも気を失ってしまったらしい。

「虹夜さん、それは……?」

「見てはいけない、ノメァ嬢。これは十中八九『魔術書の原典』、その一部だ」

「原典だって? どうしてひばりがこんなになってんだ!?」

「力ある魔術書は適性を求めるのだ。殊更『これ』のような原典にはな」

 虹夜は紐や鎖を巻きつけ、厳重に封印してある魔術書『ねくろのみこん』を指した。
 元々魔術に対して才能のなかった虹夜を『邪神召喚』というハイレベルな禁術を起動せしめた最上級の魔術書だ。

「社長の『検索』がどういったプロセスを経てそれに至ったのかは分からないが……彼女の症状は魔術書に中てられた時のそれに良く似ている」

「……虹夜兄ィ、そいつはどうなるんだ」

「心配は要らない、濃い魔力を受け付けなかっただけだ。しばらく魔力から遠ざけて休ませていれば自ずと回復する」

 はっきりと断言されたことで、ノメァとファイトはほっと胸をなでおろした。
 しかし、ノメァはすぐに気づく。
 ひばりがそうなってしまった原因が、自分があの魔術の詳細を知りたいと願ったからだと。

 またしても、不幸を振りまいてしまった。

「……ノメァ嬢、君の思いは本物か?」

「虹夜、さん……」

「私は本物だと信じている。恐らく、社長もだ。そうだと確信していなければ、酷い高熱にうなされながらにしてこれを書き上げられまい」

 虹夜の手にはひばりのメモ帳がある。
 それは彼女が気を失うほどの侵食を受けながらも残してくれたバトンだ。
 ポラリスに追いつくための、唯一の手がかり。

「――私は、ポラリスと話がしたい」

 声が震えていたかもしれない。
 ひばりの繋いだ希望を無下にしたくない思いも当然あった。
 だが、この思いも隠しようがないほどに本物だ。

「よろしい」

 虹夜が笑った、ような気がした。

「ファイト君、事情は察せているかな?」

「ポラ子がどっか行っちまったんだろ? んでそれに追いつくにゃそのメモが必要ってことか」

 その返答に虹夜は満足げに頷く。
 おごそかな手つきで、ひばりから託されたメモ帳を開いた。
 バトンが、ひばりから虹夜へと手渡された。

「……ふむ、社長の様子からもう少々複雑なものと予想していたが。この程度ならば」

 虹夜が平気なのは、魔力に対する適性が高かったからか。
 あるいは魔術書『ねくろのみこん』の力なのか。
 全てを読み終え、記憶したのだろう。
 虹夜はそのメモをもう誰も読めないように細かく破いた。

「決して、私に近づいてはいけないよ。ノメァ嬢、ファイト君……、後は……任せる」

 言って、虹夜は『ねくろのみこん』を封印している鎖を一本だけ解く。
 それだけなのに、『ねくろのみこん』からはどす黒いもやのような何かが溢れ出したような錯覚を覚える。
 いや、現に周囲が捻じ曲がっているのかもしれない。

「――――――」

 虹夜の口から呪文が紡がれる。
 それはここらで日ごろ聞くような言語ではなかった。
 しかしノメァにとっては似たような言語をどこかで聞いたような、そんな感覚がする。

 そうだ、これはポラリスと初めて会ったときに聞いたものか。

「――――――、」

 ふと、虹夜がふらついた。
 ぞぞぞぞぞ、と『ねくろのみこん』から溢れていた黒い何かが虹夜を包み込んでいく。
 しばらくすると、それは黒からだんだんと黒々とした赤へと色を変えていった。

 あまりにも生々しい赤で、見る者を不安にさせる色。
 その正体はすぐに分かった。
 虹夜が咳き込みながら吐き出したからだ。

「虹夜兄ッ!?」

 ファイトが思わず駆け寄ろうとするが虹夜はそれを拒む。
 今は術式の真っ最中だ、ここで手を出されては術式が崩壊する。
 下手すればその全ての魔力が暴走し、虹夜が粉々になってしまう恐れがある。

「――――――!!!」

 虹夜は仰け反り、最後の呪文を紡ぐ。
 それは地獄の底から鬼が這い出るような、そんな重々しくも激しい叫びである。
 赤黒い魔力が全身から立ち上り、まるで火柱のように天へと向かって揺れた。

「ッ、あれはっ……!?」

 虹夜のすぐ前方に青白い魔方陣が現れた。
 恐らくは術式の完了とともに出現したゲートなのだろう。
 魔法陣の中心にはぽっかりと口を開けているような穴が存在する。
 その向こう側は、明らかに後ろの景色とは異なっていた。

「――こ、虹夜兄ィッ!!」

 それとほぼ同時に、虹夜の膝が折れた。
 仰け反った体勢のままその身を地面に横たえる。
 荒い呼吸を繰り返しながら、時折身体を小刻みに震わせていた。

「こんなッ! こんな無茶するなんて聞いてないわ!」

「……ふふっ、私は……救世主になれない、からな……」

 自嘲気味な言葉。
 それは虹夜の本心だったかもしれない。

「行くんだ、ノメァ嬢……! 社長と私が繋いだバトンを、途切れさせるんじゃない……!!」

 無駄にするな、そう虹夜は言っていた。

 ノメァはもう悩まない、振り返らない。
 繋がれたバトンを握る、前へ出る。
 愛用のメイスを握り締め、魔法陣の中心を通っていく。

「そうだ……、私は斬り込み隊員であり救世主ではない。
 私が拓いた道は、私ではなく君が進むべきものだ。
 真の目的を果たすのは私ではなく君なのだ……さぁ行け、救世主!」

 虹夜の声を背に、ノメァは一歩を踏み出す。

「ノメァ嬢! 虹夜兄とひばりは俺に任せろ! ポラ子に……あいつに会って、戻って来い!!」

 ファイトの声を背に、ノメァは更なる一歩を踏み出した。

「――私たちの思いを共に、為すべきを為せッ!!」

 その声に押されるように、ノメァは最後の一歩を踏み出す。
 もう、彼らの声は届かない。


「がっ、く……!」

 ポラリス・エイムズは距離を取った。
 いや、取らされた。
 致命傷にはならなかったものの、腹の負傷は軽視できるものではない。

 この傷を抱えてあの反則級の『ルール』を持つ観測者とやりあわねばならないという悪条件。
 その中であっても、ポラリスはまだ笑えた。
 笑う余裕なんてない。
 それでも――いや、だからこそ笑う。

「気に入らないねぇ、それ」

「あはっ、じゃあもっと笑ってあげる」

 観測者の眉が動いた。
 なんとも分かりやすい、とポラリスは笑む。
 この男は思い通りにいかないことに腹を立てるタイプだ。
 特にこの世界は彼の思うがままに動くのだから尚更だろう。

「命乞いでもしてくれると嬉しいなぁ?」

「ハッ、すると思う?」

 吐き捨てるように言って、ポラリスは笑う。

 それとほぼ同時に、地面が奇妙に蠢いた。
 沼地のように沈み込んだと思えば、ポラリスの足首をがっちりと固定して再び固まった。
 ここは観測者の世界だ、地面すらも彼の支配下である。
 地面の一部はまるで生き物のように蠢き、ポラリスを前へ前へ、観測者のほうへと誘っていく。

「じわじわと弱火で焼いてあげよう。僕はウェルダンが好みなんだ」

「ヴァンパイアクォーターのウェルダンなんて随分と悪趣味だよ!」

 減らず口すらも叩き潰すような爆発。
 それにポラリスは突っ込まされた。
 今度は翼での防御が間に合ったが、弱火云々を踏まえると恐らくこれも観測者の狙い通りなのだろう。

「ッ――このッ!!」

 ポラリスは再び『真紅のリボン』を展開し、新たな神器を再構築する。
 魔剣ダーインスレイヴ。
 一度鞘から抜き放たれれば必ず誰かを殺すとされる魔剣である。
 ポラリスの持つそれは『確実なる死』の性質を最大限に引き上げたもので、決して消えない『呪いの傷』を再現する。

 ダーインスレイヴで足を固定している地面を突き刺すと、痺れたような感覚が足首へと伝わった。
 翼で大きく羽ばたき、両足を地面から引き抜く。
 物質に対してもその呪いは有効だが、観測者は『世界の性質』そのものを変えてしまう。
 恐らくこの対処法も一度限りだろう。
 もし再び捕まれば、次はない。

 今は飛翔することで地面との接触を避けているが、この翼にも限りがある。
 連続使用時間の限界に来てしまえば、自ずと解除されてしまう。
 その前にあの観測者へと干渉する方法が見つかればポラリスにも勝機はある。

 ――本当にそうか?

「はっ……はっ……!!」

 息が切れる。
 心が落ち着かない。
 身体が、翼が重い気がする。

 再び地面が蠢く。
 幾本もの柱が立ち、白蛇のようなそれはうねりながらポラリスを狙う。
 翼で大気を叩いて軌道を修正し、どうにか回避していくが、防御だろうと一切触れられないというのは相当なストレスだ。

 しかしこの程度ならまだまだ避けられる。
 隙をみて観測者へ接近することも十分に可能だ。
 そうすればまだ試していない神器だってたくさんある。
 勝機は、ある。

 ――本当にそうか?

「ッ――!!」

 ぎり、と歯が軋む。

 迷っている暇も余裕もない。
 今はあの観測者を倒すことだけを考えなければ。

「あうっ……!?」

 背中への衝撃にポラリスはうめく。
 死角からの白蛇の一撃が彼女の肺の中の空気を叩き出した。
 激しく咳き込むポラリスは背中にじわりと侵食される感触を覚え、即座に翼を解除した。
 同時に、日本刀でわずかに付着していた白蛇を、衣服ごと切り離す。

 自由落下の最中に再び『真紅のリボン』より霧を展開する。
 観測者との距離は、およそ二〇歩ほどだ。
 地面に次々と神器を放ち、即席の足場を作って踏破する。

 今度こそ、この一撃で。
 ポラリスが『真紅のリボン』から展開したのは霊枝ミストルティンだ。
 世界の全てが傷を付けられないはずの神を殺した、『例外』の属性をもつ神器である。
 つまりは、『世界』を裏切った神器だ。

「ビーゴンッ!!!」

 投げつけられたミストルティンは矢へと姿を変え、一直線に観測者へと向かっていく。
 ポラリス渾身の、恐らくは最後の一撃。
 もはやポラリスの手持ちにはこれ以上の手はなかった。

「――それを待っていたんだよ!」

 あろうことか、観測者は笑った。
 笑って、ミストルティンの矢を左手で受けた。
 鮮血を撒き散らしながら、それでも観測者の笑みは崩れない。
 心臓狙いの一撃を、たかだか腕一本を犠牲にしてかわされた。

「そ、んな……!?」

「っはは、痛いねぇ……だけど嬉しい痛みだ。これでもう、君は手も足も出ない」

 観測者の厭らしい笑い声は続く。

 ポラリスの見通しは甘すぎたのだ。
 事前の様子からこちらの情報を少なからず握っているものと思っていたが甘かった。
 観測者は、ポラリスの情報のほぼ全てを握っていたのだろう。

 こちらが繰り出す攻撃や神器の全てを調べ、それら全てを用いても破れない世界。
 それを観測者は作り出した。
 世界でただひとり、ポラリス・エイムズを殺すためだけに。

 しかし唯一、『例外』の属性を持つミストルティンだけはどんな世界を、ルールを作ろうが封じようがない。
 だから待っていたのだ。
 ただそれだけに狙いを絞り、致命傷を受けないように立ち回っていた。

「絶望しなよ、ポラリス・エイムズ」

 言われるまでもなかった。
 ポラリスが移動していたのは神器での即席の足場である。
 ミストルティンを投げ放つという不安定な動きにより、すでに地面に接してしまっている。
 すぐに地面は観測者の意のままに蠢き、ポラリスを飲み込んでしまった。

 反則すぎる世界だ。
 この世界はあまりにも完璧だった。
 唯一の例外であるミストルティンもそのデータを取られた以上、もう通じない。

「この、世界……でも、だとしたら……」

 小さな爆発。
 ポラリスの呟きは、観測者の放った魔術によって遮られた。

「ふう、長かったねぇ……これでようやく、君をいたぶれるってものだ」

 魔力の爆発は連続する。
 それだけでなく、地面も自在に形を変えてポラリスを襲った。

「ごっ……!?」

 爆撃、打撃、斬撃。
 ありとあらゆる方法で、ポラリスは『死なない程度』に殺された。

「あはははははははっ! いいよいいよぉ、その惨めな格好ォ!!」

 もはやボロ雑巾のように仕立て上げられたポラリスを、観測者は笑う。
 どれだけの憎悪があったのだろう。
 たった一五歳の少女をこれほどまでに痛めつけ、それでも笑っていられるのだ。

「……、……て……は……」

 ポラリスの唇はまだ動く。
 しかしその声はまるで小さく、誰の耳にも届かない。

「まだ終わらないよ、この程度じゃ終わらない。
 この世界にいる限り君は殺さない。
 永遠に続く痛みを、無限に及ぶ方法で、果てしない先の先まで与え続けてあげる」

 ぎちぎちと、観測者の口の端がつり上がる。
 恍惚の表情で涎を垂らし、狂気の瞳が虫の息のポラリスを睨めつける。

 ポラリスはもう言葉を返す余力もない。
 細い呼吸を繰り返すばかりであるが、わずかに動いた唇は切れ切れの言葉を紡ぐ。

「……、あ……る」

 バギン、と。
 ガラスに亀裂が走るような鋭い音が、世界に響いた。

「なんだ!?」

 観測者は信じられないものを見たような声を上げている。
 ポラリスへの攻撃は、来ない。

 ガラスを破るような音が続く。
 ずたずたにされたポラリスの身体では、それが頭上から響いてきているということしか分からない。
 その間、ポラリスへの攻撃は一切なかった。

「何、だと。まさか……!?」

 観測者の狼狽した声。
 何が起こっているかは分からないが、少なくとも彼にとっての予想外が起こったことは間違いなかった。

「ずいぶんと――」

 聞き慣れた声がした。
 それはもう二度と聞けないと覚悟をしていた声。
 だのに心の底では断ち切れなかった、未練の声。

「――好き勝手やってくれたようね」

 ポラリスは必死に目を開けた。
 しかしその人影はこちらに背を向けていて、顔は見えない。

 背を向けているのではなかった。
 その人影は、観測者を見据えて対峙しているのだ。

「私の大切な  をここまでしておいて」

 不意に、一部の言葉が聞き取れなかった。
 いや、聞き取れたのかもしれないがポラリスには確信が持てない。
 やがてそれは混濁した記憶の隅へと追いやられ、有耶無耶になってしまった。

「……ただで済むと思うんじゃないわよ!!」

 ノメァ・ピドュポエガは吼える。
 愛用のメイスの切っ先を観測者へと向け、ポラリスを守るように立ちはだかった。


 ゲートを抜けた先は、真っ白な空間だった。
 自分の背丈よりも少しだけ高い天井と、前方にしか道のない袋小路のような場所。
 ノメァ・ピドュポエガはもう後へは引けないことを確信していた。
 何をするにせよ、前へ進む。

 先が見えない。
 というか、どこまでも白い。
 ノメァは不安を覚え、自然と駆け足になっていた。

 駆け足どころではない。
 遂には全力疾走へとシフトする。
 何も見えない暗闇はひとの精神の磨耗を早める。
 真っ白で何もない世界であっても、同様の効果があるだろう。

「……あれは!」

 しばらく走った先で空間に変化が表れた。
 今まで走っていた道が唐突に途切れている。
 終点かと思えば、そうでもない。

 奈落と思ったが単に広い盆地のようであり、どうにも透明の地面が存在するらしい。
 透明の地面の下には二つの異物があった。

 片方は先ほど見た観測者と名乗った男の姿だ。
 そしてもう片方は、地面に埋まりかけていて人影と呼んでいいものか怪しいものである。

「――ッ!!」

 しかし、ノメァは気づく。
 そのボロ布のようになった何かが、人間のかたちをしていることを。
 その人間のかたちをした何かが、赤いリボンをしていることを。

 めき、と。
 ノメァの中でとある感情が爆発した。

 ノメァはナイトメアという夜の種族である。
 魂に穢れを持つナイトメアは、その穢れの象徴たる角を額に持つ。
 前髪で隠されたそれが隆起するとき、それはノメァ・ピドュポエガが本気で相手を潰すことを覚悟した証である。
 それは、『異貌化』と呼ばれる現象だった。

「っふぅー……」

 ノメァは手首を裂いて、自ら血液を流す。
 どろどろと流れ出すそれの勢いは止まらず、とんでもない量が更に流れていく。
 その血は重力に逆らって宙を舞い、尾を引いてノメァの周囲をぐるぐると周る。
 やがて、それらの血液は溶けるように消滅した。

 『月夜の祈祷』というスキル。
 自らの血液を触媒として自身の身体能力、主に回避行動能力を向上させる魔性の加護である。
 ノメァ自身の寿命を削るという途轍もないデメリットがあるが、ノメァは一切迷わない。

「ごふ……!」

 口からも血液を吐いて、ノメァは唾と共に吐き出した。
 乱雑に口元を拭ってから更に集中する。

 『血肉の加護』というスキル。
 出血の最中にその量を増やし、自らの力を増すものだ。
 最大最強の威力を、次の一撃に乗せる。

 愛用のメイスを構える。
 この透明の地面がどんな材質でできていようが関係ない。
 何があろうと、ぶち壊して辿り着いてみせる。

「――ンアアアァアアア!!!!」

 この瞬間。
 世界に亀裂の走る音がした。




To Be Continued...つづきはこちら

  • 最終更新:2015-02-08 19:47:15

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