卵が孵るまで/それから

下手人:烏間鈴女

ぜえぜえと荒い息。ぐすぐすと洟をすする音。
ここは保健室ですらない。すっかり物珍しくなった、昔の公園を再現したという学内の中庭。
授業中で人通りの無いそこに、俺とひばりは座り込んでいた。
「落ち着いたか?」
尋ねると、ひばりは弱弱しく頷いた。

化石時代の伝統を重んじた学校制度なんて時代遅れもいいところだと個人的には思っているのだが、入れられてしまったからにはどうしようもない。俺たちの世代の……2,3世代は上の世代が普通に通っていたような古めかしい学校だ。
教わる授業こそ新しくはなっているものの、昔からの学級制度はいまだ健在。そのせいで、ひばりはすっかり精神をやられてしまっていた。……学校のせいにばかりするのはいささか責任逃れも甚だしいところだろうが。
授業中、教師に当てられて黒板の前まで進み出たはいいが、怖くなって震えているところに教師の叱咤が飛び、パニックを起こしてしまった――というところらしかった。ひばりのこの症状は今に始まったことではない。もうずっとこんな調子で、少し前までは教室に入ることすら不可能だった。何とか緩和されてきており、それなら教室に顔くらい出しておけ、という学校側の勝手な指示によって教室復帰を目指していた訳だが……やはり彼女にとって、この環境は苛酷だったらしい。
ぼろぼろと泣いている彼女の眼鏡を取ってやる。度の低い普通の眼鏡はすっかり涙で濡れていた。
ひっく、ひっくとしゃくりあげながら、ひばりは俺を見る。
「……ごめ、ごめん、な……さい……また、邪魔――しちゃっ、て……」
「邪魔なんかしてない。大丈夫だから」
「――でも、……じゅ、授業……抜けさせ、ました……また、また……うっ、あ――!」
そこまで言うと、また泣き出してしまう。俺はそっとひばりの肩に手を回した。
華奢で、ただでさえ体格が良いとは言えない俺からしても、折れそうなほどに細い彼女。
頼りないその体を、努めて優しく抱きしめる。
「邪魔なんかじゃない。それに、あの程度の授業なんざ受けなくたって、俺はやっていけるさ。そんなことより、俺は、お前が大事なんだから」
それに対して、ひばりは必死になって首を横に振った。
「それじゃ……それじゃ、ダメなんです! お兄ちゃんは、……お兄ちゃん、私の、ことは、どうか……気に、しないで」
「駄目だ!」
ひばりは必死になって否定するが、俺は更にそれを否定する。
彼女は周りの目を気にしすぎる。周りから期待されている――自分で言うのも癪だが、かなり将来を嘱望されている――俺の枷にならないようにと、邪魔にならないようにと、ひばりは周囲から、家族から、とにかく酷い扱いばかり受けていた。緊張しがちで人前に立つと失敗ばかりしていると尚更にだ。お前のような駄目な奴は引っ込んでいなさいと、邪魔をするなと、そういった言葉ばかり投げつけられて。
でも、それは違う。絶対に違う。
「確かに俺には将来を見てくれる家族の目がある。頼れる友人だっている。教師だっている。……それでも、俺にとっては、そんな人たちよりも、なによりひばりが大事なんだ。
 それがどんなに他人から見て愚かなことでも、それがどんなに不合理なことでも、俺は一切構わない。そんなにして得られるもの以上に、俺はひばりとの時間が大事なんだ。お前がいなければ、俺は誰に不安を打ち明けたらいい? 相談をしたらいい? 泣き言を言えばいい?」
ひばりは弱弱しく、でも、でも、と繰り返している。
「それにそんな事すらどうでもいい。俺は、お前が、誰よりも好きだ。家族として、……と言うと信頼が置けないかもしれない。ただ、兄として……一人の人間として。俺はお前が大好きだよ。傍にいてくれる、話せる、触れ合える――それがどれだけ俺にとって幸せか、お前は分からないだろう?」
彼女の反応は無い。
「……できれば、お前にとって、俺もそういう人でありたいんだ」
理想だけどな、と呟いた俺の、自分でも不思議なほど乾いた声に、ひばりの肩がひくりと震える。
「無理でも、なんでも。不合理でも、なんでも。幻想でも、なんでも。
 ……俺は、お前の傍にいたい。それが、俺の偽りない感情だ」
彼女の肩ががくりと落ちる。顔が俺の肩へと押し付けられる。……肩が、彼女の涙で熱く濡れる。
「どんなに誰がなんと言おうと、俺は、お前の傍にいることが望みだよ。それだけで、俺は幸せなんだ」
それから、昔よくやっていたように、彼女の頭を撫ぜる。
細い髪が乱れて、少しだけ指に絡まる。
ひばりはそれから、ずっと泣き続けた。
ありがとう、ごめんなさい、その二語だけをずっと繰り返していた。
しかし、彼女は決して俺の傍を離れなかった。離れようとしなかった。そろそろ帰ろうか、と尋ねても、頑としてそこを動かなかった。
微かに、本当に微かな声でひばりは呟いていた。

「私も、離れたくありません――」


******


「……ふう」
モニターを見上げながら、眼鏡を外して付け直す。
あの日から、もう……あれはひばりが中等部の2年生のときだったから、ざっと5年も前だろう。
しかしあの時は我ながら恥ずかしい告白をしたものだ。決意そのものは今でも変わらないが、あれではほとんど――
『実は今朝からポラリスさんの様子がおかしいのです。何か知りませんか?』
モニターに文字列が並べられる。それと同時に、画面の中のひばりによく似た、しかしあの頃よりは成熟し、あの頃にあった気弱さの片鱗すらも伺えない無表情で――その中に僅かに滲む、他者への心配の感情が分かる――彼女は言葉を紡いでいる。声は聞こえない。その声は、全て無機質な文字列として変換されている。
『ポラリスの?』
銀髪の少女……この、自分たちが構築したデータ内にいるはずのないキャラクターの台詞が表示される。恐らく、彼女たちは普通に会話をしている。誰かが設定したものではない。ひばりだけが動き、ルーチン通りの台詞を返しているどころか、このマップ自体がそもそも存在しないはずのものなのだから。
ここがどこにつながっているマップなのか、その情報を追い求めてどれだけ経っただろう。
結論は出ていない。正確に言えば、科学的根拠のある結論は出ていない。
自分自身の中にある結論は、認めたくない、の一言だ。

俺が扉を開き、彼女を遠い異世界へと押し出してしまった、などと。
そのせいで、ずっと彼女に逢えないこと。

「逢えなくても――いいさ」
掛けなおした眼鏡を調整し、モニター前の椅子に座る。
逢えなくてもいい。きっと、逢えば彼女は全てを思い出し、以前の状態に戻って苦しむだろう。
だから、今は。

「逢えなくても、ずっと傍にいるさ」


******


私なんかに、構ってくれる人がいてはいけないはずなんです。
本当は、どこかで私はあなたと離れなければならないと思います。
でも、嬉しいです。
手を差し伸べてくれる限り、その手を掴み。
掴んだその手で、あなたの冷え切った手を暖めたい。
もしもそれすら叶わなくなっても、

お兄ちゃんの傍にいることが、きっと私にとって唯一の幸せに繋がると思うのです。
だから、どんな形であれ、私はずっとお兄ちゃんの傍にいます。

  • 最終更新:2015-01-03 23:48:28

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード